
要約
主」(ギリシャ語でキュリオス)という称号は、新約聖書において決定的な変化を遂げました。当初は「先生」や「主人」を意味する敬称として使われていましたが、復活の後、それはイエスの神性と絶対的な権威を認める「信仰告白」となりました。クリスチャンが「イエスは主です」と言うとき、それは彼が万物の支配者であり、旧約聖書の神(ヤハウェ)と同等の権威を持つ方であることを認めることを意味します(ローマ 10:9; ピリピ 2:11)。
最も基本的な意味において、「主(ロード)」とは単に支配権を行使する者を指します。マタイの福音書 8:2で重い皮膚病を患う人がイエスに近づいたとき、あるいはマタイ 8:25で嵐の中で弟子たちがパニックになって叫んだとき、「主よ」という称号は、完全に展開された神学的な主張というよりは、力ある癒やし手に対する敬意を表していた可能性が高いと言えます。マタイ 15:25で、イエスの前にひざまずいたカナン人の女性の願いでさえ、この枠組みの中では神性の告白というよりは、最上級の敬称として機能しています。
神学的告白への移行
復活は、言葉の意味に決定的な変化をもたらしました。空の墓の後、「主」という呼びかけは単なる礼儀作法であることをやめ、信仰の告白となりました。この変容はヨハネの福音書の記述において結晶化されています。そこでトマスが叫んだ「私の主、私の神」(ヨハネ 20:28)という言葉は、この用語がキリスト教宣教の中心となる重みを獲得したことを示しています。ペテロはペンテコステの日に、神が十字架につけられたイエスを「主ともキリストとも」されたと明確に論じました()。コルネリウスの物語の時点までには、この範囲はさらに拡大し、イエスをイスラエルだけの主ではなく、「すべての者の主」()として提示しています。


